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『ベイブ』論 あるいは父についての序論

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『『ベイブ』論 あるいは父についての序論』 著:柿内正午 出版:零貨店アカミミ 判型:新書判(縦173mm×横105mm)、88頁、厚み5.8mm ーーーーーーーーーー 『プルーストを読む生活』ほか日記本で知られる著者・柿内正午ですが、彼は哲学的、思索的な文章の名手でもあり、なおかつ映画・演劇論にも精通してます。 『ベイブ』を著者の目を通じて追体験する、革新的な構成の第一部を経て、第二部は映画館隣のカフェで展開される、興奮冷めやらぬ鑑賞後のおしゃべり。 階級制や脱近代を背後に、父性のありようを、マジョリティ男性として絶望せずに、90年代の映画にその萌芽を見出し、現実では更新されなかったその鑑賞の先を見出していく試み。 (以下、長めの感想) 本書は二章で構成されていて、最初は「映画上映の記録」、後半は「映画の感想会」(意訳)であり、本書での著者の主張は後半に収録されている。というものなのだが、その面白さは前半に(も)ある。『ベイブ』という作品を、「愚直に「実況中継」的な手法」で行われた記録は映画を「代わりに見る」試みである、というのは明らかに言い過ぎで(もちろん、誰もそんなことは主張していない)、それは後半で著者自身が指摘するように、著者の「目」を通じた、意図的な取捨選択がなされた映画の文章化、である。 この文章化は、『ベイブ』鑑賞者であれば、そうそう、と頷けることもあれば、そうだったっけ? いや、このときの感情はそれとは別のものだ、いう気持ちも抱く。自身はあまり気にしていなかった点を著者が必要に追う場面もいくつかあるだろう。こうした著者の「目」を多くの頁を割いて記録(説明)していくのは、ある種革新的な「手間のかけ方」といえる。 手間を割いているのだ。非効率に。 ごく一般的な映画評であれば、閲覧を前提にその評が進むわけだが、もちろん映画は、見る人それぞれが個別の感情を抱くものだ。その個別の感情、あちらこちら、個人的な体験に紐づいてときに脱線すらするそれ、にひたすら寄り添いながら「見て」行くとしたらそれは「代わりに見る」ことになるのかもしれないのだが、著者の目的はそこにはない。『ベイブ』という作品を、このように再構築した=見た、という著者の目を丁寧に、ゆっくりと読者に刷り込んでいく。それはさながら授業のようで…… 「はい、では『ベイブ』を、ここまで丁寧に解説付きで鑑賞してきました。では次回からは本題の映画論に入ります。」 というようなわけだ。 そしてこの工作を著者は隠そうとしておらず、それすら楽しんでみては、と読者に働きかけるのである。 こうして時間をかけた導入のあとに語られる映画論は、著者自身が広告用に引用している「はじめに」に簡潔にまとまっているので、それを見るのが早いのだが、「近代と脱近代」、「内在する階級制」(意訳)など大きく出ながら、交換不可能性から可能性を読み解く試みや、旧来の「父性」の成立をフロンティア的開拓者精神で整合させる、著者の手腕は見事で、本来は理路など無く興奮のあまりいつもうまくまとまらない「映画鑑賞会後のカフェでのダベリ」を、勢いはそのままに、しっかりと読ませるものに仕立て上げている。 ネタバレめいてしまうが「余剰としての歌と踊り」は、映画でも、本書でも、まさに祝祭であって、本書前半の非効率な「鑑賞」は、余剰が生み出す豊穣を、そのまま体現しているかのようだ。 それにしても店主個人として25年くらいぶりに見た『ベイブ』は、とても引き込ませる映画であった。こうして『ベイブ』ファンが増えるのもまた、映画論の醍醐味でもあろう。 柿内正午の関連本↓ https://stores.jp/search?q=%E6%9F%BF%E5%86%85%E6%AD%A3%E5%8D%88&store=mardock (以下、出版元からの紹介文) 映画『ベイブ』を丹念に見つめることで、 「現代における父性とはどのようなものであるべきか」 という大きな問いに挑む。 『会社員の哲学』の精神的続編。 幼少期に自身を魅了した映画を、大人になったいま観返すこと。そのなかで得た直観は、ここにありえたかもしれない現在の「父」の姿が予感されている、というものだった。いまだこの国に蔓延る家父長制の粉砕を夢見るとき、自身をフェミニストと自認しすこしでもマシな実践を模索するとき、「父」なるものの有害さばかりが意識され、「男らしさ」をそのまま悪なるものと断じてしまいたくなる。しかし現状を確認したときにすぐさま気がつくのは、打倒すべき「父」なるものはすでに失効しており、ただ構造としての家父長制だけが残置されているということである。産湯と共に赤子を流すというが、むしろ「よき父」という赤子だけが流されてしまい、居残った臭い産湯が「男」の本質であるかのように捉えられているのが現在の状況ではないだろうか。(…) では、「父」においてよきものとは何か。僕はこの問いを前に長年立ちすくんでいた。そのようなものが果たしてあるだろうか。「男」とは乱暴で汚らしいものでしかないではないか。内面化したミサンドリーに阻まれて、自身の性と向き合うことはなかなかに困難であった。そんななか、『ベイブ』を再発見したのである。当然、飛躍である。本稿は、映画論を方便としたごきげんな男性論の試みでもある。 (「はじめに」より)

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